門田(KADOTA)
初代(the 1st.);門田 直馬(なおま,KADOTA Naoma,1877-1954)
2代(the 2nd.);門田 茂(KADOTA Shigeru,1910-1998)
3代(the 3rd.);門田 正(KADOTA Tadashi,1932-1992)

 門田家は四国土佐河内(高知県佐川町)で5代200年続いた甲冑師一家であった。しかし明治維新後の廃刀令で廃業に追い込まれ、細々と刃物を作って生業としていた。

 門田家6代目当主直馬は、25才の時(1902年・明治35年)新天地を求め、単身で北海道・空知の奈井江に入植した。翌年高知県の入植者の多かった石狩川を隔てた隣接の浦臼村(現・樺戸郡浦臼町)へ移り住み、父・新平以下家族を呼び寄せた。入植後も直馬はフイゴとハンマーを捨てず、開拓に必要な農機具作りに励んだ。クワやカマといった古い農具だけでなく洋式大型農機具の改良に精を出した。刃物にかけては名人肌の新平は、新しいものを考案し試作するそんな直馬に文句は言わなかった。直馬の後継者の茂は浦臼で生まれた。

 直馬は、新しい農機具の特許を得たのをきっかけにこれの販路を拡げるため、20年過ごした浦臼を離れ1922年(大正11年)一家そろって札幌市内に転居した。間もなく茂が高等小学校を卒業し、父直馬の指導で鍛冶職人への道に入った。

 1929年(昭和4年)12月、直馬が52才、茂が19才修業中の時、北大工学部の学生だった和久田弘一(当時21才)から外国製のエッケンシュタイン型8本爪アイゼンを持ち込まれ「これと同じものを作ってくれ」と頼まれた。しかも材料は和久田が持参したニッケルクロム鋼だった。意気盛んな茂は「外国人に作れて日本人に作れないはずがねえ」と承諾した。
 簡単に引き受けたアイゼン作りではあったが小さな鉄の丸棒から8本の尖った爪を作り出すのは難しかった。それでも直馬と茂は製作に没頭し、1ヶ月余りかかって7足のアイゼンを作り上げた。このアイゼンは和久田ら北大山岳部員によってその冬の十勝での合宿で使用され好評を得た。

 翌1930年(昭和5年)2月、札幌の運動具店からアイゼン50足の注文が入った。茂は鉄塊から爪を打ち出すきっかけを作る治具を考案し、大量の注文に応えた。同年7月、和久田は今度はスイスのシェンク及びエルクの作になるピッケルを持って再び門田鉄工所を訪れた。すでに複雑な構造のアイゼンの鍛造に慣れていた門田親子は和久田の注文に応えるピッケル4本を作り上げた。ただしこの時のピッケルは焼きが甘かったため、後からピックとブレードに浸炭(炭の細片と鋼材とを密閉容器に入れて高温度に熱し、鋼材表面に炭素を浸透させること)させ硬度を上げた(この和久田愛用の第1号ピッケルが現存し、札幌ウインタースポーツミュージアムに所蔵されている)。

 研究熱心な和久田は1931年(昭和6年)低温での脆さを克服するために今度はニッケルクロムモリブデン鋼でピッケルを作らせてみた。そして浜松の実家に帰省した際、東京と大阪の登山用品店「好日山荘」にピッケルとアイゼンを持ち込み「これだけの製品を作れる人間が札幌にいる」と宣伝した。販売するについては銘が必要であろうということから特殊鋼(ニッケル・クロム・モリブテン鋼)にはレモン型二重楕円の中にMANUFACTURED -BY- KADOTA SAPPOROとした。この銘は後に楕円SAPPORO KADOTAとなる。また炭素鋼を用いた物にはSAPPORO BERGHEIL K.I.W.とした。ちなみにBERGHEILはドイツ語でBERGは山、HEILは万歳の意味である。またK.I.W.は英語でKadota Iron Works(門田鉄工所)の略である。この当時(昭和10年頃まで)の物では特殊鋼で作られたピッケルは数が少なかったためにBERGHEIL銘の方が数が多い。また昭和10年頃まではピッケル・アイゼンと農機具を半分ずつ製造していた。
 1936年(昭和11年)立教大学によるナンダコット(6860メートル)遠征隊に門田の特殊鋼ピッケルが使用され、札幌・門田の名声がさらに高まった。

 翌年、外部から「会社組織にして大きくしないか」との誘いを受け、直馬を社長とする「株式会社門田工具製作所」がスタートした。従業員もそれまでの2倍強の15人とした。しかし外部から派遣してきた役員にアゴで使われるのに嫌気がさした茂は1939年(昭和14年)9月、会社を退職してしまう。直馬も社外重役に追い出され事実上会社を乗っ取られてしまった。門田親子が抜けた後、KADOTAの銘の入った出来の良くないピッケルやアイゼンが出回り、粗悪品の評判が出てしまう。茂は1940年(昭和15年)3月、大阪・好日山荘の西岡一雄等の協力を得て再び札幌・琴似(琴似町山の手、現・札幌市西区山の手)でアイゼンの製作を再開することになった。同年11月までアイゼンを作ったが戦時体制下に入りピッケル、アイゼン共に禁制品(製造禁止品)になってしまった。

 戦時中は農機具や軍用シャベルの製造をしていたが茂は1942年(昭和17年)召集され北千島に出征した。そして終戦の年、1945年(昭和20年)1月、目を悪くして引き揚げ帰国した。「門田製作所」に戻った茂は残っていた材料で農機具の製造を再開した。

 戦後は1947年(昭和22年)頃から戦前と同様に東京・大阪の登山用品店から注文が入り始め、再びピッケル・アイゼン製造に取り組むことになった。1951年(昭和26年)には農機具の製造をやめてピッケルとアイゼンを専門に作るようになった。戦後すぐのピッケルの作風は戦前の物と同様であったが1952年(昭和27年)頃からは登山界の要請に合わせてブレードをカップ型にするなど柔軟に対応した。それにともない製品の種類も増えていった。
 1956年(昭和31年)のマナスル(8125メートル)登頂をきっかけとした登山ブームを受けて門田の製品はピッケル年間約3000本、アイゼン1000足を製作するようになった。それらは札幌の秀岳荘をはじめ、東京や大阪にある計7軒の登山用具店へ供給された。マナスルの山頂に携えられた門田のピッケルは当時の皇太子殿下(現天皇)へ贈られた。マナスルでの成功の2年前、直馬は77才で他界した。

 茂は、秋田の鍛冶職人で戦後一時ピッケルとアイゼンを作っていた森谷一郎の紹介により、秋田生まれで能代工業高校出身でトヨタ自動車に勤めていた正を職人として迎えた。正の実家は秋田県で代々家具製作をしている家柄であった。正は札幌市内宮の森から通勤し、茂に鍛えられた。数年後、既に門田家の縁戚から養女に入っていた順子と結婚し、門田家8代目(ピッケル鍛冶としては3代目)となった。1959年(昭和34年)、正が27才のことであった。
 正は期待に応えて、茂が45年間蓄積した鍛冶職人としての技術を吸収していった。正の代ではピッケルは外国の輸入品も多く、アイゼンもプレス物、ピッケルもメタルシャフトが全盛になった時代である。門田も1980年(昭和55年)頃からヘッド部は鍛造、シャフトはメタルという製品を作り始めた。

 1986年(昭和61年)冬、正は知人の通夜から帰ってきた夜に突然くも膜下出血で倒れた。幸い大事には至らず、数ヶ月で退院したが灼熱下での作業は医師から止められた。そのとき正は日本山岳会の創立80周年記念ピッケルを製作中であった。これは戦前のピッケルをモデルとして特殊鋼で製作したピッケルであった。当初の引き受け予定では200本だったが全国の会員からの希望数が予想を超えて532本に膨れてしまい、たっての要望で引き受けたのであった。完成本数は325本であった。この時2代目の茂は76才、既に往年の力はない。茂は「正の他にも職人はいるが、今までのようなピッケルは作れない」と判断し、廃業を決意した。ここに60年近く続いた門田のピッケル・アイゼン作りは終焉を迎えた。門田ピッケルの総製作本数は正確な記録がないので定かではないが約5万本と言われている。
 なお、正は日本山岳会の記念ピッケルの製作以前にチタンを素材にしたピッケルも作っている。1983年厳冬期のエベレスト隊とミニヤコンガで奇跡の生還をした松田宏也が中国へお礼に贈ったものだ。チタンの硬さゆえ加工時間が4倍かかったというが、新しい試みにも挑戦していたのである。正は廃業6年後の1992年(平成4年)他界した。その後1998年(平成10年)10月、茂も88年の苦労大き、しかし遺した物も多い生涯を終えた。[文中敬称略。なお本記事は札幌市在住の若林修二氏から寄稿いただいた調査記録を基にしています]
 
  
直馬 KADOTA Naoma

直馬(昭和8年頃) Naoma(1933)

茂 KADOTA Shigeru
 

正 KADOTA Tadashi
 


特殊鋼初期型 [東京都世田谷区、村田茂氏旧蔵] NEW !
 
門田の極初期、1932(昭和7)年頃の作と考えられる特殊鋼ピッケル。ヘッド長29.8pで楕円形の頭抜き構造である。全長は90pで重量は1040g。ブレードは二等辺三角形で下部側肉をそぎ落としていない。フィンガは160oで3点留めとなっている。銘はMANUFACTURED -BY- KADOTA SAPPOROと打たれている。門田の極く初期の特殊鋼ピッケルである












SAPPORO KADOTA (1) [神奈川県大磯町、佐々木直氏所蔵]
 
門田の初期に近い、1933(昭和8)年頃の作と考えられる特殊鋼ピッケル。ヘッドは楕円形の頭抜き構造で、いわゆる尺1寸の33.8p。全長は90.5pで重量は1080gの大柄な仕上がりになっている。ブレードは二等辺三角形で下部側肉をそぎ落としていない。フィンガは長く、195oあり3点留めとなっている。石突きのハーネスは古典的な寸胴である。












SAPPORO KADOTA (2) [兵庫県神戸市、佐藤純司氏所蔵]
 
特殊鋼製の門田で戦前の作。ヘッド長31.0p、全長86.0pの堂々とした逸品。フィンガーには、一九三六 門田作、と刻まれていて長さは18.2pと長い。一九三六は1936(昭和11)年に製造したことを表している。この頃はすでに頭抜き構造は採用していなかったがブレードは二等辺三角形で下部側肉をそぎ落としていない古典的形状になっている。












SAPPORO KADOTA (3) [北海道札幌市、若林修二氏所蔵]
 
特殊鋼製で1958(昭和33)年製造の物。北大スキー部山班(当時の呼称)が山スキーに携行するために門田に依頼して作らせた物で、札幌の登山用品店秀岳荘で一般にも販売していたとのこと。ヘッド長30.0p、全長70.0p、ブレードは扇形。
 刻印は同じSAPPORO KADOTAでも戦前の物とは違う刻印を使っていたと考えられる。違いは戦後の刻印の方が楕円が少しふっくらしていることが大きな特徴。また戦後の刻印はKADOTAのAの三角部分が潰れていない。












SAPPORO KADOTA (4) [神奈川県川崎市、宮坂吉雄氏所蔵]
 
1950年頃から60年頃(昭和25〜35年頃)に製作されていたと思われる特殊鋼の代表的モデル。ヘッド長30.7p、全長84.0p、ブレードはイチョウ形。シャフトは下に向かってテーパが掛かっていて石突きもその延長形状になっている。ヘッドは勿論のこと、全体の作りが非常に丁寧である。












SAPPORO KADOTA (5)
 
門田がピッケルにサミットやサクセスといった名称を付ける以前1960年代に製造・販売された物で、単に「特殊鋼穴明き」という名で呼ばれていた物。ヘッド長30.2p、全長80.0p、ブレードは大きく開いた銀杏形。軽量化のためにピックの厚みが薄くなっている。また銘は前の2つとは異なる刻印が使われている。










BERGHEIL (1) [千葉県八日市場市、中台格之氏所蔵]
 
戦前の1935(昭和10)年頃に作られたと思われる炭素鋼製の門田である。ヘッド長はいわゆる尺1寸の33.3p、全長82.5p。ケラ首が長いという戦前の特徴が良く出ている姿である。尺1寸ではあるがピック及びシャフトが細身であることから重量は1.0sに押さえられている。軽量化はこのピッケルの注文者の希望だったのだろうか。










門田の30p物との比較


BERGHEIL (2) [千葉県八日市場市、中台格之氏所蔵]
 
これも戦前の1935(昭和10)年頃に作られたと思われる炭素鋼製の門田である。ヘッド長31.0p、全長84p。戦前の物は戦後に比べてケラ首が長いことやブレードが扇型であること等が特徴となっている。このピッケルはかなり酷使されたらしくシャフト交換された形跡がある。












BERGHEIL (3) [千葉県八日市場市、中台格之氏所蔵]
 
戦後すぐ、1947〜1950(昭和22〜25)年頃に作られたと思われる炭素鋼製の門田である。ヘッド長30.2p、全長75.5p、重量は1.0s。
 ブレード幅が比較的狭いことやブレード下部側肉を削ぎ落としていない点、シャフトが厚く楕円であることやハーネスが寸胴であること等、戦前門田の特徴のまだ残されている点を随所に見ることができる。












右側のBELGHEIL(5)と比べるとブレード下部側肉が
削ぎ落ちていないことが良く分かる


BERGHEIL (4) [北海道札幌市、若林修二氏所蔵]
 
炭素鋼製の門田で1952(昭和27)年の作。ヘッド長31.5p、全長84.5p。ピックは細身で優雅な曲線を描いている。ブレードは扇形。










BERGHEIL (5)
 1960(昭和35)年頃の作と思われる。ヘッド長33.0pのいわゆる尺1寸物。ブレードは少し膨らみを持たせた扇形。










右側は30.0pのフリッチ。尺1寸物がいかに大振りであったかが良く分かる。



BERGHEIL (6) [神奈川県川崎市、宮坂吉雄氏所蔵]
 1960年代の作と思われるヘッド長27.7pの小振りの物。シャフトも細めに作られているので女性が使用していた物であろうか(ただし門田では特に女性用と謳っての製品販売はしていなかったとのことである)。全長81.5p、重量810g。








ヘッド長の異なる同時代の3本
左から27p、30p、33p


手前から27p、30p、33p



サクセス(SUCCESS)[千葉県八日市場市、中台格之氏所蔵]


 左下にあるのは山岳雑誌「岳人」1972(昭和47)年6月号に掲載されている門田の宣伝広告である。この頃門田はモデルの種類を増やし、それぞれにモデル名を付けていった。
 この広告にはそれまでの「特殊鋼穴あき」がモデル・チェンジしてサクセスという新たな名前になったことが記されている。
 サクセスは氷壁での使用を意識してヘッド長が27.3pと小振りになった。ピックはややきついカーブが付けられ、先端は切り落とし型になり、下部には深い刻みが入った。ブレードも湾曲化し、カラビナ・ホールも大きく空けられている。シャフトは下部に向かって太くなっている。











↑特殊鋼穴空き  ↓サクセス





ヌプリ(NUPURI)[北海道札幌市、若林修二氏所蔵]
 1970年代〜80年代にかけて作られていたピッケルである。銘はBERGHEILであるがこの頃はすでに炭素鋼ではなくてクロム・モリブデン鋼を使用していた。ヌプリ、サミット、サクセス、ロフティ等のモデルがあった。ヌプリとはアイヌ語で「山」のことである。







サミット(SUMMIT)
 1970年代に作られたニッケル・クロム・モリブテン鋼を材料にした物。ヘッド長28p。








ロフティ(LOFTY)[長野県長野市、池田瑞城氏所蔵]
 それまで作られていた特殊鋼穴なしをモデルチャンジし、ロフティと名付けて販売した物。1970年代の作であろう。
 ヘッド長は29.6p、全長88.5p、ブレードは湾曲している。ハーネスはこの時代の他のモデルと同様に強いテーパが掛かっていてその固定はブレード側からマイナスネジで行っている。
 ロフティ(Lofty)とはそびえる、気高い、堂々としたという意味の英語である。









ネパール・フューラー(NEPAL-FÜHRER)[秋田県能代市、中田直和氏所蔵]
 日本とネパールとは古くから友好関係にあり、1970(昭和45)年、ビレンドラ皇太子(当時)の結婚を記念して日本山岳会は門田に依頼した特注ピッケルを贈呈している。
 そんなことがきっかけとなり昭和40年代後半、門田はネパール・シリーズを製作したようだ。このシリーズはフューラー(山案内人)、フランケ(FLANKE 、側壁)、ツルム(TURM、岩峰)の3種類で構成されていた。フューラーが500本程度、フランケとツルムがそれぞれ200〜300本程度販売されたようだ。

 下の写真はフューラーである。ヘッド形状は戦後のベントを手本にしている。ヘッド長27.5cm、全長73.5cmであり重量790gと軽量にできている。またブレード側のフィンガーには「札幌門田茂作(製造番号)」と門田には珍しい刻み銘が入っている。この刻み銘はフューラーだけに入れられた。また下の個体の製造番号は「弐百」(200)である。
 ネパール・シリーズはサミットやサクセスといった量産モデルとは一線を画す限定生産品であった。このため価格も高かった。下のフューラーは1972(昭和47)年購入であるが25,000円したそうである。













サミット・アタック[北海道札幌市、鈴木和夫氏所蔵]
 サミットのピックをさらに急角度にしたもの。ピックの付け根に空いているもう一つの穴はシュリンゲを通すためのもの。
材質はニッケル・クロム・モリブテン鋼で、銘は「札幌・門田−秀岳荘」となっている。門田は自社の刻印だけの製品の他に各地の登山用品店の刻印を打った製品を作り、そこに卸していた。こういった製品は、初めは好日山荘向けだけであったがその後、何店かに増えていった。このピッケルも札幌にある登山用品店、秀岳荘の銘が打ってある。ヘッド長30p。








日本山岳会創立80周年記念モデル[東京都在住・N氏所蔵]
 日本山岳会創立80周年記念事業の一つとして作られたピッケルである。1935(昭和10)年頃に作られていた物をモデルとして製作された。ヘッド長27.2p、全長80p、材質はニッケルクロムモリブデン鋼。ブレードは扇形でハーネスも当時の物に忠実に寸胴になっている。ピック背面には日本山岳会(JAC、Japan Alpine Club)のマークと創立の1905(明治38)年、そして80周年である1985(昭和60)年の数字が刻まれている。