日本高周波(NIHON KOSYUHA) |
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日本高周波重工業は1936(昭和11)年に設立された企業である(1950年に日本高周波鉱業に社名変更)。社名の由来は菊池秀之によって発明された、砂鉄から直接鋼を精錬する「高周波電撃精錬法」に由来している。元来鉄鉱石産出の少ない我国では砂鉄を原料とする精錬法は注目され、第2次世界大戦前夜の世界情勢を背景に日本高周波は陸海軍の支援を受けた。本社は当時の朝鮮京城府(現ソウル)に置き、東京都品川と富山県新湊市に工場を置いた。
第2次世界大戦が終了し、軍需が途絶えた日本高周波は、剃刀、鎌、鉈等の民生品に活路を見いだそうと試作を開始した。ピッケル作りは中央大学山岳部OBでもある初代社長有賀光豊(1873〜1949)の発案によるものであった。当時(終戦直後)は物資の払底した状況下にあり、登山用品店でさえも古道具屋で買い付けた物を店頭に並べるような時代であった。このような状況を背景に日本高周波富山工場ではゼロ戦の脚に用いた特殊鋼(旧陸海軍航空材料規格強靱鋼、クロムモリブデン鋼イ203)を材料にし、山内作をモデルにして試作を繰り返した。試作は三箇勇が中心となり、東京好日山荘の海野良治の指導を得て行った。こうして1946(昭和21)年から翌年に掛けて50本ほどの製品が完成し、内25本は東京好日山荘で、さらに数本は大阪好日山荘で販売された。 その後まもなく朝鮮戦争の特需によって鋼材生産が軌道に乗ると日本高周波ではピッケルのような末端製品を作る意味がなくなりピッケルの生産は中止された。このピッケルが幻のピッケルと言われるゆえんである。 |
KOSYUHA TOYAMA[東京都青梅市、遠藤正明氏所蔵] 極めて貴重な日本高周波のピッケルである。ヘッド長33.7cm、全長84cm、重量は1140gと大振り・重厚な逸品である(フィンガ長175mm、3点留め)。ヘッド頂稜部が厚く、ブレードも扇形であることから1937(昭和12)年頃の山内作をモデルに作られた物と考えられる。ブレードの下部側肉が削ぎ落とされている点やピックの上側よりも下側が厚い点、またフィンガの付け根が丸く弧を描いている点など山内を忠実にコピーしたことがうかがえる。シャフトは上下にテーパを持ったエンタシス構造となっている。ハーネスは寸胴でブレード側からピンが打たれている。どの文献にも「大振りであった」と記されていることから尺1寸のこのモデルしか作られなかったと思われる。銘は二重楕円にKOSYUHA TOYAMAと打たれているが製作本数が少量だったこともあって専用の刻印は作らずに楕円は手でけがき、アルファベットも1文字ずつ打ったようだ。 |
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