仙台(SENDAI.) |
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1960(昭和35)年11月末、東北大学山岳部パーティの一人が北穂高岳の稜線から滝谷側に滑落した。この遭難者が持っていたピッケルは、いわゆる溶接ピッケル(ヘッド上半分とフィンガを含む下半分とを別々に作って溶接した物)であった。遭難者は数度滑落停止を試みたようだが滑落を止めることはできず帰らぬ人となってしまった。後日出動した捜索隊によって、ヘッドの上半分がなくなってしまったシャフト部分が発見され、ピッケルの破損が遭難死の2次原因と推定された。
この遺品のピッケルは東北大学金属材料研究所(以下金研)に持ち込まれ、金研教授の今井勇之進、広根徳太郎らによって分析が行われた。その結果このピッケルは溶接個所が少なく、溶接の仕方も不良であったことが判明した。さらに当時市販されていた他のピッケルも調べた結果、一流品と評価されているものでも金属学的には全く不満足な処理しかされていないという悲観的な調査結果が出された。 東北大学の地元仙台市には山内東一郎という優れたピッケル鍛冶がいたが山内はこの時既に70才を迎え、ピッケル作りは年に10数本程度になってしまっていた。山内を輩出した金研では、登山者に安心して託すことができ、山内と同等以上の性能でなおかつ近代的なピッケルを作り出すことが急務であると考えた。そしてその話を引き取ったのは同じ仙台市にある東洋刃物株式会社であった。 東洋刃物は1925(大正14)年、金研所長であった本多光太郎を最高顧問として設立された会社であり、本社は仙台市にあって工業用機械刃物を製造している会社である。設立当初から金研と関係の深かった東洋刃物は、ピッケルの品質水準を高めるべく金研と共同で新しいピッケルの製作に取りかかった。 ピッケルに対して「最高の合理性」を目指したこのプロジェクトは1961(昭和36)年に話が持ち上がり、翌1962年の春に立ち上げられた。ピッケルの材質、形状、熱処理、仕上げ等に関して特殊鋼の熱処理で有名な前出の今井勇之進を始め、学識者、登山家、技術者、その他多くの権威者に指導と助言を仰いで企画・設計が進められた。そしてその年の8月から販売が開始された。 ヘッドにはニッケル・クロム・モリブデン鋼が用いられ、シャフトには東北産の「たも」の木芯が使用された。ヘッド全体は山内風の美しい曲線を描きながら思い切った軽量化が図られている。そして山内が最後まで拒んだカラビナ・ホールがこのピッケルには空けられた。穴位置はブレード側にオフセットしてあるがこれはシモン・スーパーD初期型を参考にしたものと思われる。 ヘッドの首、いわゆる「ケラ首」が異常に長いのも大きな特徴となっている。これは首部分の強度を増すためと、シャフト上部とヘッドとの接合面積を多くして一体化を図るためではないかと思われる。ヘッド長は30.3pの1種類だけであり、カラビナ・ホールありが標準品であった。ただし注文に応じて穴なしも製作可能であった。 生産方法は注文に応じて1本1本手作りで行う受注生産であり、価格は1本9000円であった。これは山内ピッケルの当時の価格1万円よりも安いもののかなり高額であったようだ。注文は仙台だけでなく東京方面からもあった。しかしこのような手の掛かるピッケルは会社組織で製造するのは採算が合わず、1964(昭和39)年には生産中止となってしまった。2年間で作られた仙台ピッケルは200本であった。 ヘッドにはSENDAIの文字と共に愛らしい鳩が描かれている。これは鳩が必ず巣に帰るという習性にちなみ、登山者に事故がなく無事に家に帰れるようにという縁起を担いで付けられたものであった(ただし当初生産の50本だけ)。後にこの鳩マークは弱々しいイメージがあるということで旧仙台藩主である伊達家の家紋「三つ引両」に改められた。(本文中敬称略)(参考文献;科学朝日1961年12月号記事「折れたピッケルのなぞ」) |
SENDAI [鹿児島県屋久町、榊原浩平氏所蔵] 鳩マークの入った当初生産品の標準モデル。ヘッド長実測30.5p、全長85p、重量は860gと軽量。ピックは細身で薄くブレードは琴柱(ことじ)型でフラット。フィンガ長は173oで先端三角形の3点留め。ケラ首は55oと長く、シャフトは小判型で細身。ハーネスはフィンガが付き、横からピン打ち。シュピッツェはシャルレに似ているがシャルレの円形に対してこちらは楕円型。専用のヘッドカバーと石突きプロテクタが付属していた。 |
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ヘッドカバーと石突きプロテクタ ヘッドカバーのシャフト部分には鳩マークが刻印されている |
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SENDAI PICKEL SENDAI JAPANと記されている |
三引き両の家紋 |