山内(やまのうち、YAMANOUCHI)

山内東一郎、やまのうち・とういちろう、1890(明治23)年〜1966(昭和41)年
Yamanouchi Toichiro (1890-1966)
[日本には山内東一郎という稀代のピッケル鍛冶がいた。以下は山内研究の第一人者、平柳一郎氏の研究論文を基に記してある]
 
 山内東一郎は青森県の生まれであった。小学校卒業後県内の呉服商に奉公し、その後鍛冶屋の徒弟となった。1912(明治45)年、山内22才の時、上京を決意して汽車に乗ったが旅費がなくなり途中の仙台に下車、そこを第2の故郷とした。
 仙台での山内は鍛冶職人としての技を生かして鉄道機関区工場や町工場等で働いた。間もなく1913(大正2)年、仙台高等工業学校に職を得て、機械工場の職工となった。
 1917(大正6)年、仙台高等工業学校は東北帝大工学部と改まり、山内は同大教授で金属材料の世界的権威、本多光太郎が所長を務める鉄鋼研究所(後に金属材料研究所と改称)に勤務した。山内はそこで学校の求めに応じて試作研究用器具の鍛造及び熱処理等の仕事をしていた。
 
 1924(大正13)年のある日、学生が自慢げに外国製のピッケルを鍛造工場に持ってきて「こんな物が作れないか?」と山内に相談した。当時の登山は一部の恵まれた人々の趣味であったから大学職員とはいえ一介の鍛冶職人である山内は本格的な登山はしたこともなく、ピッケルがどんな物も知らなかった。しかし山内は一目見てピッケルに魅せられた。そして学生から雪山に於けるピッケルの重要性や遙か彼方スイスの名匠達の話を聞くに及んで「自分もこんな物を作ってみたい」という思いを押さえることができなかった。
 山内は仕事の合間に図面を引き、議論を重ね、試作品を作ってみた。そんな様子を見ていた同大学OBの立上秀二は開店間もない大阪の登山用品店、好日山荘の西岡一雄に山内のことを話した。それを好機と捉えた西岡一雄は立上を介して山内に見本として外国製ピッケル4本(シェンク、ベント、エルク、ウィリッシュ)を送った。
 
 1926(大正15)年、山内は東北帝大を辞職して仙台市内に自分の工場を持った。山内36歳、自分の工場を持つに足る経歴と年齢であった。山内は小さいながらも仙台市内に山内鉄工所を開き、東北帝大の下請仕事や農業・林業の刃物作りをしながら西岡から送られたサンプルを参考に引き続きピッケルの試作を続けた。
 1927(昭和2)年、東北帝大山岳部から10本程のピッケルの注文が入った。これはスイス物の模作に過ぎなかったが、翌1928(昭和3)年、東北帝大に入学した桝田定司は山内の人柄と腕前を知り、さらに優れたピッケルを目指して山内に助言を行った。そして同年、大阪好日山荘で試作品数本を販売した。これが好評であったので翌1929(昭和4)年、正式に山内の銘を刻んだピッケルを販売することになった。記念すべき有銘第1号は桝田定司が仙台から大阪に携えて来た。
 山内は自分が製作して世に出したピッケルには番号を打っていった。当初は1929年の第1番から順番に打っていったが1934(昭和9)年頃の300番代からは4の付く番号は欠番とした。4が入ったピッケルは好日山荘の客筋から敬遠されたためらしい。

 初期の頃の山内は年間20本程度の製作数であったらしい。そのころの材質は炭素鋼、後にニッケル・クロム鋼を用いた。1933(昭和8)年頃から材質がニッケル・クロム・モリブテン鋼になり、1938(昭和13)年頃までは年間100本程度鍛造したらしい。
 時代は次第に戦争へと傾いて行き、1940(昭和15)年になるとピッケルは禁制品(政府によって製造を禁止された品)となった。しかし反骨精神の旺盛な山内はピッケルを作り続けた。入手困難になった材料は東京好日山荘の海野治良から送られた廃車のクランク・シャフトで代用した。クランク・シャフトは特殊鋼(主にクロム・モリブテン鋼)であったのでピッケルの材料として充分であった。戦時中は5年間で約100本のピッケルが作られたと考えられている。

 1945(昭和20)年7月、仙台は空襲を受け、山内の工場も灰燼に帰した。戦後の山内はピッケル製作よりも採鉱用ハンマーの製作に力を注いだ。ピッケルよりもハンマーの方が戦に敗れた国の復興に役立つと判断したからであった。山内のピッケル作りは次第に寡作の傾向をたどっていった。
 年間50本程に落ち込んでしまったピッケル作りではあったが1952(昭和27)年には当時の皇太子(現天皇)に第1825番が献上され、1957(昭和32)年には、仙台を訪れた高松宮に第2000番が献上された。山内67歳の頃であった(このピッケルは現在は仙台にある金属博物館に所蔵されている)。老境に入った山内は、その後ますます寡作の傾向が強くなり、特別な注文以外はピッケルを作らなくなった。どうしても山内のピッケルが欲しい人は、はるばる仙台の山内を訪ねて直接依頼した。それでも手に入れられない人も多かったらしい。そして1966(昭和41)年4月、山内は塵肺症のため死去した。75歳だった。


壮年期の山内
 山内には息子もいたが彼らは独自の道を歩み、山内自身も独特の技術と心構えを要求されるピッケル作りは彼一代限りのものと決めていた。したがって後継者はなく山内東一郎一代限りで終わってしまった。

 山内のピッケルは1961(昭和36)年当時で尺物(ヘッド長30p)1本が1万円であったとのことである。これは相当な高額で当時の1ヶ月分のサラリーに匹敵したと考えられる。しかし山内は1本作るのに多くの手間を掛けたから生産効率は非常に低く、常に貧乏生活であったらしい。
 
 平柳一郎によると山内のピッケルは第1番から1965(昭和40)年製作の最終作2186番まで、銘がある物が1664本作られたとしている(前述のように4の入った番号は欠番である)。また銘のない試作品100本、特殊品100本も含めて生涯製作本数は1864本程度であろうとのこと。この内、道具としての役割を終えて廃棄された物、山での遭難で紛失した物、戦火に焼かれた物等を差し引くと明らかに山内作と分かる銘のある物の現存数は700本以下であろうと推察される。(本文中敬称略)

晩年の山内、出典;山内ピッケル抄録(参考文献3-2)



初期作 [奈良県奈良市、大賀壽二氏旧蔵]
 1929(昭和4)年後半に作られた山内作有銘第1号のピッケルである。ヘッド長31cm、全長76cm、重量1000g。ヘッドは重厚であり、ずっしり重い。また実際に山で酷使されたためであろうかピック先端は少し短くなっているように見える。銘はピック先端を左にしてMADE BY/YAMAUCHI/SENDAI、反対面にNo.1と1文字ずつ刻印されている。平柳一郎氏によればこの形式の銘は20本以下であろうとのこと。
 ヘッド形状は大賀壽二氏指摘の通りエルクに似ている(「好日山荘往来」上巻)。また当時のシェンクやベントに見られる頭抜き構造にはなっていない。これは平柳氏が「(山内は)頭抜きの必要性について一夜考えあぐねた」と記してある通り、なくても良い構造であると山内が(または周辺が)見抜いていたからであろう。
 このピッケルは好日山荘で販売されることなく、西岡一雄氏の手元に残ることとなった。その後、関西の名クライマーで好日山荘の店員となった北条理一氏に渡った。北条氏は昭和16年に応召することになり、山内1号を旧知の前田光雄氏に託した。北条氏は満州で転戦する内に当地で病没した。その後、前田氏から再び好日山荘に戻り、西岡氏の後継者である大賀氏が所有することになった。
 シャフトについて大賀氏は「まったくのオリジナル」としている。確かにシャフト及び石突きの部品は山内オリジナルのままであろがシャフト詰めしてあると考えられる。なぜなら昭和4年当時のピッケル全長は90cmが標準であり、山内も同じような長さで作ったはずであること。さらにシュピッツェは通常の位置から45度回転した位置に固定されていて(つまり手が加えられている)このような作りの山内は見たことがないこと。またシャフト交換することもできた当時の好日山荘店員ならば寸詰めなど簡単な作業であったことなどである。以上のことから西岡氏または北条氏(おそらく北条氏であろう)が使いやすくするためにシャフト詰めをした結果76cmになったと考えられる。















初期作 [日本山岳会所蔵]
 1933(昭和8)年作、ヘッド長30.7cm、全長は88cmであり、番号は77が刻まれている。ブレードは特徴的な琴柱型であり、平柳一郎氏はこの形状を、当時輸入されたビョルンスタットの影響を受けていると推察している。ピックの傾きは中期作以降の物に比べてまだ穏やかであり、ブレードの付け根も厚めにできている。











中期作 [東京都日野市、徳久球雄氏旧蔵]
 1936(昭和11)年作、ヘッド長33cmの大振りのピッケル。全長は84.5cmであり、ブレードは扇肩張型である。シャフトと石突きは戦後門田で交換を行っている。ピック側のフィンガーに「仙台山内作」と刻んであった銘は残念ながらその際削り取られてしまい、仙台の台の字が辛うじて判読できる程度である。番号は665が刻まれていたとのこと。ピック下には6段の刻みが入っている。













中期作 [京都府京都市、塚本珪一氏旧蔵・寄贈] NEW !
 山内作678番、推定1936〜37(昭和11〜12)年作、ヘッド長31.5cm、全長86.5cmのピッケルであり、ブレードは扇肩張型である。シャフトは山内には珍しく板目であるがオリジナルのままであると思われる。銘はピック側フィンガーに「仙台山内作 六七八」と刻んである。またピックの付け根に「2」と打ってある。これはおそらくヘッド長を表すコードであり、大阪好日山荘だけのものであったと推定できる。なおこのピッケルは庄司次郎氏(1909-1988)旧蔵品を塚本珪一氏が引き継いだ物である。













中期作 [青森県弘前市、大家幸子氏所蔵(実父手塚勝治氏旧蔵)]
 ヘッド長34.1pの極めて大振りの逸品。銘は「昭和十寅初春 仙台 山内作 九二二」と刻まれている。寅(とら)は十二支の3番目なので昭和13(1938)年製作であることを示している。昭和11年が十二支の最初の子(ね)に当たったことから山内はこのような年号の記載をしたようだ。番号はやや判読が難しいが922番と読める。シャフトと石突きは交換されているように見える。
 山内ピッケルの形状は時代と共に少しずつ変化している。特にブレードの形状変化が顕著である。即ち、極初期の銀杏型(イチョウの葉のような形状)が60番台前半まであり、次に77番のような琴柱型に移った。それが緩やかに変形して角が取れ、665番のような扇肩張型になり、そして昭和12年の600番台後半からはすっきりした扇型になるのである。この922番はその扇型の代表作である。その後ブレードの形状は1000番前後から徐々に扇の肩が張り始め、再び1158番のような扇肩張型に変化していった。ブレードの形状変化だけでも興味深いものがある。














  ↑665番(33p)   ↓922番(34p)




中期作 [長野県長野市、池田瑞城氏所蔵]
 ヘッド長33.4pのいわゆる尺一寸物。製作年は刻されていないが1158番の製作番号が刻まれている。参考文献3-2で平柳一郎氏は1182番を昭和16年作と推定していることからこのピッケルは同じ年あるいはその前年1940(昭和15)年の作と考えられる。ブレードは扇肩張型であり、銘はピック側に「仙台 山内作」と刻まれている。
 このピッケルは戦後になってシャフト及び石突きの交換をしたようだ。全長は70pに詰められていて石突きも山内の物とは明らかに異なる物が付いている。石突きの形状からして札幌の門田に加工を依頼したものと考えられる。













中期作 [東京都練馬区、田村朋之氏所蔵]
 太平洋戦争中、1944(昭和19)年の作でブレードは扇形、ヘッド長は31.5pの堂々とした逸品。とても手で作ったとは思えないピックの平面性、きちんと角を立てた辺など山内がピッケル作りにどれほどこだわっていたかが良く分かる。












後期作 [昭和山岳会、高野好右氏旧蔵・寄贈] NEW !
 山内作1732番、推定1949(昭和24)年作、ヘッド長32cm、全長84.5cmのピッケルであり、ブレードは扇肩張型である。銘は「仙台 山内東一郎作」とフルネームで刻んであり、これは後期作の特徴のひとつでもある。この個体にはブレード側のフィンガーに注文者の名前も刻んである。丁寧な作りのステンレス製遊動リングは山内オリジナルの物であろう。















後期作 [神奈川県横浜市、山本健一郎氏旧蔵]
 1950(昭和25)年製作で1773番の製作番号が刻まれている。ヘッド長32cm、全長84cm。このピッケルは同番号が存在する。山本氏によればこのピッケルを手に入れた冬に富士山で雪崩に遭い、このピッケルを紛失した。そのことを山内東一郎に連絡すると同番号でもう一本作ってくれたそうである。翌夏、再び富士山に登り紛失したこのピッケルを探し出した。シャフトは痛んでいたので交換したそうであるが山内の手になるものではないようだ。石突き部分も山内作とは異なる。ただし山内作のステンレス遊動リングは元の物が使われている。













後期作 [大阪府大阪市、中尾嘉文氏旧蔵・寄贈] NEW !
 山内作1965番、推定1956〜57(昭和31〜32)年作、ヘッド長30.3cm、全長85.5cmのピッケルであり、ブレードは扇肩張型である。この頃の山内は時代の流れに従って大振りの物はあまり作らなくなり、30cmが標準サイズになった。この個体は1970年代にシャフトと石突きを門田に依頼して交換しており、門田の当時のテーパが掛かったハーネスが使われている。フィンガーに刻んであった銘はその時に削られ、何とか判読できる程度である。なおこのピッケルは寺阪元雄氏旧蔵品を中尾嘉文氏が引き継いだ物である。












  ↑678番(31.5p)   ↓1965番(30.3p)




後期作 [東京都在住、N氏所蔵]
 推定1958〜59(昭和33〜34)年の製作でブレードは琴柱型に近い扇肩張型。ヘッド長は30.5p。銘は「仙台 山内東一郎作」とフルネームで刻んである。












[ヘッド形状の変化]
右奥から1番(1929年製)、665番(1936年製)、678番(1936年製)、
1732番(1949年製)、1773番(1950年製)、1965番(1956年製)