ピッケルの歴史 (The history of ice axes)
写真1 グリンデルワルトにて  

[アルプスでの歴史]
 ピッケルは登山の歴史と共にアルプスの麓で進化した。特にアイガーやマッターホルンなど多くの山に囲まれたスイスでは多くのピッケル鍛冶が誕生した。

 アルプスの山々は北緯47度あたりにあり、日本に比べて緯度が高い。試みにスイスやオーストリアが日本の近くにあったと仮定すれば北海道の北に位置することになる。また標高4000メートルを超える山も多くあり、気温が低いため山中では夏でも普通に雪が降る。このため氷河があり、麓の村からいきなり岩と氷の世界になる。

 山国スイスでは氷河末端の近くにまで昔から人が住んでいる。写真1はグリンデルワルトでの景色であるが人家と氷河の末端がそれほど遠くないことが分かる。
 また写真2及び3は真夏(7月下旬)の稜線の写真であるが日本の冬山並、又はそれ以上に雪があることが見て取れる。これらの写真から分かるようにアルプスでの登山には夏でもピッケルが必要である。

 ピッケルは誰かの発明した物ではなく、極めて自然発生的にできあがった物である。登山の黎明期には氷河を登り降りする時の補助となる「杖」と、雪や氷に足場を刻むための「斧」とは別々の物であった。共に手に持って使う物であるから誰かがそれを合体して使い始めたのは当然の成り行きであった。こうしてできた形がピッケルの起源と考えられる。初めは鳶口(とびくち)のような形だったり、柄の長さも1メートル以上あったり、ブレードが現在の物に対して90度違う向きだったりと、さまざまな形をしていた。図1にはピッケルの形の変遷が描かれている。

 ところでピッケルに対してアイゼンが考案されるのはもっと後になってからである。したがって急な氷雪斜面では登山靴を平らに置くための足場を一つ一つ作って登って行った。このステップ・カッティングという作業は当時の山案内人(ガイド)の大事な役目であり、ピッケルの重要性は、アイゼン併用の現代の登山に比べて極めて高かったと推察できる。このためピッケルは道具としての完成度を急速に高めていったと考えられる。特にピック及びブレードの形状、材質、焼き入れ具合などは多くの議論と模索があったと思われる。そしてそれらのピッケルが幾多の試作と実践を経てピッケルらしくなるのが19世紀後半、今日のような形に近くなったのは20世紀に入ってであった。

 かつてはどこの国にもあちこちにいわゆる「村の鍛冶屋」がいて(もちろん日本にも)、客の注文に応じて農具や金具などを手作りしていた。酪農が盛んなスイスも同様であったしフランス、イタリア、オーストリアなどの山間地でも同じようであったろう。そしてガイドや、その客たちが登山基地に近い山麓の鍛冶屋に依頼してピッケルを作らせたであろうことは容易に想像がつく。こうした鍛冶屋の中から今日知られているピッケル鍛冶が生まれていった。スイスではエルク、フプアウフ、フランスではシモンなどが作者銘の入ったピッケルでは最も古い製作者であり、ヘスラー、シェンク、ウィリッシュ、ベントなどと続いていった。製造方法は鋼材を熱しては叩き、また熱しては叩くいわゆる鍛造手作りであった。こうして1本1本作られたピッケルは相当高価であったと思われる。しかし彼ら名のあるピッケル鍛冶もピッケル作りだけでは生計が立たず、客の注文を受けてから他の農具製作などの仕事の様子を見ながらピッケル作りをしていたようである。

 登山の形態は第2次世界大戦前あたりから大きく変わっていった。アルプスではより困難なルートが登られるようになった。その数は極めて多いが、例えば写真4のレ・クルト北壁は1938年が初登であり、有名なアイガー北壁でも1932年に登られている。またヒマラヤの高峰への挑戦も本格的になってきた。

 戦後は登山人口も増え、それと同時にピッケルへの要求も変化した。スピーディな登山ができるよう軽く、小型になった。また長く雪面が続くルートの途中で後続者の確保がしやすいようにカラビナを通す穴をヘッドに空けたモデルの登場は画期的なできごと(1950年代)だった。

 さらに経年変化で強度劣化の恐れがあり、なおかつ良い材料が手に入りにくくなった木製シャフトに代わって金属をシャフトに使用したピッケルの登場(1960年代)もピッケルの歴史上大きなできごとだった。

 登山の一形態だったロック・クライミングが登山とは分離してフリー・クライミングとして独立した分野を形成したのと同じように氷壁だけを専門に登るアイス・クライミングもまた独立した世界を作っていった。このためピッケルは完全に2種類に分離された。つまり古典的な岩や雪を相手にした登山で使う一般的なピッケルと、アイス・クライミングに特化した専用のピッケルとである。

 ピッケルは飽くまでも道具の一つである。したがってこれまで時代の要請と共に形状や材質が変化してきたように今後も変化し続けるであろう。


[日本でのピッケル]
 日本における登山は古くは宗教的色合いが濃く、錫杖(しゃくじょう)や金剛杖(こんごうつえ)がピッケル代わりであった。本物のピッケルとしては時代が下り、ようやく楽しみとして山に登るようになる明治時代、W.ガウランドやW.ウェストンらが持ち込んだピッケルが日本に伝わった最初の物であろう。

 日本に正式にピッケルが輸入されたのは1913年(大正2年)のことであった。初代のエルクやフプアウフの作になる物でヘッド長18p程度に対して全長は1mを越える物で、ピッケルではあったがストック的意味合いの強い物であったと考えられる。その後、1921年(大正10年)頃からヘスラー、シェンク、ウィリッシュ、ベント、シモンなどが本格的に輸入され始めた。

 日本の登山も初めは夏山が中心だったから本場アルプスの登山に比べて本格的にピッケルが必要となる場面は多くはなかった。しかし持っているだけで一目で登山者と分かるピッケルは、山を志す者誰もが欲しがった。

 当時(大正から昭和初期にかけて)登山のような非生産的な活動を趣味にできる人間は極めて少数の恵まれた人たちであった。しかしそのような人たちでさえも1本の輸入ピッケルを購入するのは相当な経済的負担であったようだ。仙台の山内や札幌の門田は「輸入品と同等のピッケルを少しでも安く」という登山者側の希望で生まれた。

 山内、門田共に輸入品の模倣から始めた。しかし次第に自分のスタイルを確立していき、間もなく著名なスイス物に対して少しも劣ることのない作品を生み出していった。
 
写真2 マッターホルンを巡る遊覧ヘリコプターから
写真3 同上
写真4 モンブラン山群のレ・クルト(3856m)北壁 [ガストン・レビュファ著、モンブラン山群特選100コース]より
図1 ピッケルの形の変遷(上から下へ) [西岡一雄著 登山の小史と用具の変遷]より